東レアローズ静岡で2年目のシーズンを戦う武田大周。幼少期からエリート街道を歩み、感覚でボールを繋いできた24歳の守護神は今、大きな転換期を迎えている。かつては「厳しいところでバレーボールはやりたくない」と思い詰めた彼が、なぜこれほどまでに貪欲にボールを追うのか。一人のトレーナーから投げかけられた厳しい言葉と、そこから始まった「分析ノート」による自己改革。感覚を言葉に変え、確信を持ってコートに立つ男の進化の跡を辿る。
24歳の守護神は、常に貪欲だ。「拾えないボールって、ないと思うんですよ。うわー、この人やっぱすごいな、って思うこともあるけど、別次元じゃないし、自分が負けているとも思わない。だから余計に、試合で負けるのが悔しいんです」
東レアローズ静岡で2年目のシーズンを迎えた武田大周は、開幕から試合出場を重ね、2月1日に行われるエムット presents SV.LEAGUE ALL STAR GAMES 2025-26 KOBEにも選出された。着実に一歩ずつ、昇るべき階段を上がっているように見えるが、「まだまだ」と武田自身の満足には程遠い。
「バレーを始めた頃から、日本代表に選ばれるような選手になりたい、って思っていたので。(代表に)選ばれたら、そこからがスタートなのかな、って思いますね」

24歳でバレーボール歴はすでに18年。2人の姉がバレーボールをしていた影響で、幼い頃から「自分もやる以外の選択肢がない」と、小学1年の時に東京の強豪クラブである上野エンジェルスに入部した。自ら望んで始めたバレーボールだったが、全国大会出場ではなく全国優勝を目標に掲げるクラブの練習はハードそのもの。練習は週に6日、基礎基本の技術を磨いた甲斐あって小学4年時には全国優勝も経験したが、競技成績とは異なり「楽しい」と感じることがほぼなくなった。6年になる頃には「もう厳しいところでバレーボールはやりたくない」と一度は別の競技に転向しようかと思うほど、心は離れた。当時はセッターとしても非凡な才能を見せた武田のもとに、強豪中学からの誘いも相次いだが「中学では楽しくやりたい」と自宅から近い、銀座中への入学を決めた。
近くには築地市場や歌舞伎座がある都心の一等地。当然、スポーツの強豪校ではない。練習時間も短く、そもそも他の部員は未経験者ばかり。武田と同じく「楽しむ」ことを目的にバレーボールを始めた選手が多い中で、気づけばあれほど嫌だった厳しさをむしろ自分が一番求めてしまった、と苦笑いを浮かべる。
「都大会で強い中学を見ると、厳しいのは間違いなく伝わってくるんだけど、あっちのほうが楽しそうだな、と思うようになった。やっぱり俺は厳しいところでやりたいんだな、と気づいたから、高校は強いところでやり直そうと決めました」
東京から長野の松本国際高へ越境留学。同級生には現在Vリーグのクボタスピアーズ大阪でプレーする柳田歩輝がいて、1学年上には大阪ブルテオンに所属するエバデダン・ラリーもいた。小学生の頃と同様に、全国出場ではなく全国制覇を目指すクラブの練習は厳しい。だが、それでも気持ちは折れるどころかむしろ「やってやる」と燃え上がるばかり。本心では「セッターとしてやっていきたい」と思っていた武田が、リベロに転向したのも同時期だ。
「松国に入ってから、ひたすらレシーブ練習をしていたんですけど、球出しをするラリーさんに壬生(義文・前監督)先生が『武田のポジションはどこだ?』と何げなく聞いたんです。そうしたら、ラリーさんがものすごく軽い感じで『リベロですね』って勝手に言って。それから本当にリベロになりました(笑)」
高校1年からレギュラーに抜擢され、監督からは「柳田と武田は上でプレーする選手になれ」と言われ続けた。3年時にはインターハイ優勝も経験、まさに目指す道へ向かって順当に進んでいたように見えるが、今と同じく当時も満足には程遠い。全国を見渡せば、「上には上がいる」と思わされる同学年のライバルたちの存在が、いつも武田の心に火をつけていた。
「水町(泰杜、ウルフドッグス名古屋)を初めて見た時は衝撃でした。1年で春高優勝しただけじゃなく、中学の頃からずば抜けていた。こんなにすごいヤツが本当に同じ学年か? って毎回毎回、見るたびに驚かされました」

高校卒業後、関東一部リーグの明治大へ入学してからはさらにライバルの数が増えていく。水町だけでなく髙橋藍(サントリーサンバーズ大阪)、山田大貴(東レアローズ静岡)、同じリベロの髙木啓士郎(広島サンダーズ)や荒尾怜音(ヴォレアス北海道)。春、秋のリーグ戦や全日本インカレで勝つと掲げた目標に届かなかったことも重なり、「悔しいことのほうが多かった」と学生時代を回顧する。
だが、今となってはその悔しさなどまだ小さなものだった。そんな思いを日々抱くほど、憧れのSVリーグの東レアローズ静岡でプレーするようになってからは、武田の前には常に高く分厚い壁がそびえ立つ。
年齢や経験も異なる選手が揃う世界で、最初はなかなか試合に出られないことに苛立っていた。だが、ルーキーイヤーの昨季、同じリベロの山口拓海のケガで出場機会をつかんだ直後、武田にとって大きな転機が訪れた。
試合が続く中、いかに自分の長所をアピールすることができるか。矢印を自分に向けていた武田に、ストレートな言葉でアスレティックトレーナーの加藤翔に喝を入れられた。「むちゃくちゃ響いた」というひと言が、武田の胸に深く刻まれた。
「『俺は正直、お前よりも拓海のほうが全然いいと思ってる。でも大周にとってチャンスであることは間違いないんだから、もっとバレーのことを真剣に考えていいんじゃないの?』って。正直、その時はそう言われても何からやればいいかわからなかったんです。でも自分で“考える”ことは確かにできると思って、そこから映像をめちゃくちゃ見るようになったし、見るだけじゃなく自分なりに相手の傾向やクセを分析して記録する、分析ノートをつけるようになりました」
トスの位置によってどのコースへ打つことが多いかという傾向だけでなく、トスがずれた時や割れた時、体勢が崩れた時はどんなプレーをしているか。対戦相手のスパイカーの動きを飽きるほど見てノートに書き込む。スパイクだけでなくサーブも同様で、1人1人どんなサーブを打って、どのコースへ打つことが多いのか。単純に見える作業ではあったが、ひたすら見て、書き込むうちに自然と頭に映像が記録され、実際の試合で同じ状況が訪れれば、勘ではなく確信と理由を持って動き、狙い通りにレシーブできるシーンも増えた。
「前は感覚でした。でも今は自分のプレーを言語化できる。1から100まで、自分の意識が完全に変わりました」

プレーに対する意識だけでなく、周りからどう見られ、どう見せることができるか。プロとしての意識も変化した。
「学生時代はこれだけたくさんのお客さんの前でプレーする機会がなかなかないので、(東レ静岡に入って)1年目は、試合が終わってからも嬉しくて。もっと自分を見てもらいたいと思っていたから、何となくその場に残っていたんです。でもその時間でケアをしたり、栄養補給したり、できることはたくさんある。自分の価値を高めるのはあくまでコートの中で見せるプレーなんだから、もっとそのために準備をして集中しようって考えるようになりました」
その成果はプレーにつながり、1本のディグやサーブレシーブ、自身のパフォーマンスに満足できる回数は増えたが、クラブがなかなか勝てない現状で自分にできることや、すべきことがある。試合に出られなかった時とは違う悔しさが、武田の闘志に火をつける。
「お互いハイレベルなプレーでぶつかり合う試合ができたら、たとえ負けたり、ミスをしても『楽しかった』って言う選手もいるじゃないですか。確かにすごいし、楽しそうだなって思うんですけど、それでもやっぱり結果の世界だから、勝たなきゃ意味ない。ミスしてヘラヘラするのは自分には合ってないし、スマートにプレーするよりも泥臭くやりたいんで。そこはこれからも、ずっと変わらないですね」
記憶をたどれば、東レアローズ(現:東レアローズ静岡)というクラブを初めて見たのはバレーボールを始めたばかりの幼い頃。東京体育館で戦う姿に魅了された。1つ1つのプレー以上に、点を取れば叫び、喜ぶ選手の熱さが、幼心にも「カッコいいな」と記憶に刻まれていた。 今、同じクラブのユニフォームを着て、自分がコートに立っている。
「阿部(裕太 現監督)さんや富松(崇彰)さん、ヨネ(米山裕太)さん。僕にとってTHE東レ静岡の人たちの熱さや雰囲気。まるまる引き継げているわけじゃないかもしれないですけど、これからは自分が引き継いで行く。そういう存在になりたいです」
スマートじゃなく、泥臭く。強さと熱さを継承し、新たな“これから”を切り拓いていく。

Text by Yuko Tanaka
Photograph by Itaru Chiba
