パンサーズジュニアでボールボーイをしていた少年が、今やSVリーグの舞台でかつてのヒーローと同じコートに立つ。清風高校での猛練習で培った守備力と、明治大学を経てVC長野トライデンツを選んだ決意。仕事とバレーを両立する環境をも「成長の糧」と捉え、大ベテラン松本慶彦の背中を追う工藤有史。憧れられる存在を目指し、強い責任感を胸にチームを勝利へ導く、彼の現在地と理想の未来に迫る。(取材日/1月31日)
ヒーローに憧れたボールボーイ時代。パンサーズジュニアから始まったバレー人生の原点
あの頃の自分に、今の自分がいる場所を伝えたら、どんな顔をするだろう。
バレーボール選手になったこと。しかも、必死でボール渡しをしていたヒーローたちと、今は笑いながら話をできていること。憧れるだけだった人のトスを、オールスターで打てたこと。
VC長野トライデンツで2年目、強化指定選手も含めれば4度目のシーズンを戦う工藤有史が、“あの頃”を噛みしめる。
「めちゃくちゃ感慨深いですよ。パンサーズジュニアで見ていた清水(邦広、大阪ブルテオン)さんが普通にしゃべってくれて、オミ(深津英臣、ウルフドッグス名古屋)さんのトスを打てる。ほんまにすごいな、って自分が一番思ってますから」
小学校に入学する前から、指導者だった父の影響でバレーボールを始めた。小学2年までは地元のクラブで練習していたが、男子専用のチームではなくほぼ多数を女子選手が占めていた。「男子だけのチームでやりたい」と思い、進んだ先が大阪Bの前身であるパナソニックパンサーズのジュニアチーム(以下、パンサーズジュニア)だった。
「当時は清水さんや福澤(達哉)さんが入ったばかりで、川村(慎二)さんもいました。小学生の頃はエスコートキッズもしたし、中学の時はパンサーズの試合でボールボーイもした。南部(正司)さんが監督で、セッターにオミさんも入った、まさにパンサーズの黄金期。パンサーズジュニアの練習がトップチームの練習後だったので、早く行ってトップの練習を見るのも楽しみでした」
中学生になれば、中学の部活とパンサーズジュニアでの活動を並行する選手もいたが、工藤の場合は少し特殊で、通う学校には女子バレー部しかなかった。実はパンサーズジュニアの1学年上で、普段から仲の良かった大塚達宣(ミラノ)も同じ環境で、大塚は中学では女子バレー部と一緒に練習をしながら、パンサーズジュニアに通っていた。同じように、学校でもバレー部に入ればいい、と大塚には勧められたが「勇気がなかった」と笑う。
「めちゃくちゃ引っ込み思案やし、女子、怖いじゃないですか(笑)。僕には無理でした」
夏に開催される中学の全国大会は無縁で、全国中学生長身選手発掘育成合宿や、選抜選考合宿に呼ばれたこともないどころか「呼ばれるはずもないと思っていた」という工藤だが、3年時には全中選抜に選ばれた。それまでは漠然と「バレーボール選手になれたらいいな」と思う程度だった将来の夢が、より具体的になったのもこの頃。

「後悔させない」恩師の言葉に導かれ、清風高校の猛練習で磨き抜かれた鉄壁のつなぎの技術
今につながる人生の転機があったとしたら――。工藤は迷わず答えた。
「高校の時です。清風に入って、本気でバレーボール選手になりたいと思ったし、なりたい、と思わせてくれた。あれから人生が変わりました」
全中選抜に入ったこともあり、清風を含めた複数の高校から誘いを受けた。地元の大阪だけでなく近隣の府県にも全国制覇を目標に掲げる強豪校はある。どうせやるなら、ちゃんとバレーボールがうまくなる場所へ行きたい。そう思っていた工藤の心を突き動かしたのは、清風高校の山口誠監督の真っすぐな言葉だった。
「『うちの練習はきついけど、後悔させません』と言われたんです。他の学校はだいたい良いことばかり、入ったらすぐレギュラーとして出てほしいとか、絶対全国に行ける、とか、そういうことを言われてきた中で、山口先生だけが『きついよ』って。その瞬間、ビビッと来たというか、ここでやりたい、と思って『清風に行きます』と決めました」
言葉通り、実際の練習は本当にきつかった。中でも「一番大変だった」と苦笑いを浮かべるのが、“スリータッチ”と呼ぶレシーブ練習。コートに3人の選手が入って監督がボールを出す。それを文字通り3本でつなぐ練習なのだが、定められた時間内、強打だけでなく前に落とされる軟打や、ブロックタッチを想定したはるか後方へ飛ぶボールなど、常に動き続けるのはもちろん、1回で返すのではなく一緒に入る選手をカバーしながらボールをつなぐのは、想像以上に難しい。
「えぐい球ばっかりなんで、先生のことをマジでなんやねん、って思うこともしょっちゅうでした(笑)。でも今思えば、あの練習をしてきたから今もブロックフォローや、落ちそうなボールを球際でコントロールしてつなげる技術がついた。そこは今でも自信がありますね」
2年時の春高で準優勝、3年時にはエースで主将を務めた。1年時からレギュラーとして試合に出場し続けてきたが、経験を重ねても当時は自分がエースだ、と胸を張れる自信がなかった。決勝で敗れた洛南高校のエースとして活躍した大塚や、清風の1学年上でミドルブロッカーでありながら攻撃の柱でエースでもあった西川馨太郎(大阪ブルテオン)と比べれば、自分の足りないところばかりに目が行っていたからだ。
初めて、自信を持って「自分の力でチームを勝たせることができた」と思えたのは、最後の春高。3回戦の福井工大福井高戦で、逆転勝利に導いた時だった。
「1セット目は取ったけど、2セット目は21対24で先行されていたところから、スパイクとサーブで追いついて、サービスエースを決めた。苦しいところでやっと自分の仕事ができた、と思えたのは3年間で初めてやったし、準々決勝に勝ってベスト4が決まった時、めちゃくちゃホッとして涙が出たんです。泣いている僕に向けて、先生から『ようやった』と言われた時は嬉しかったですね」

大学3年の夏に訪れた大きな転機。トップレベルでの成長を求めて即答したVC長野トライデンツへの挑戦
もっと上のレベルで勝負したい。大学は関東一部の明治大学に入学した。当時の明大は高校時代のように、毎日の練習に監督がいて技術や精神面の指導をしてくれるわけではなく、自主性が求められる環境。入学時がコロナ禍とも重なり、半年以上全体練習ができないところからのスタートで「うまくなれるのか、焦りしかなかった」という時間を過ごす中、二度目の転機が訪れたのは大学3年時の夏休みだった。
「今年のインカレが終わったら、ウチでやらないか?」
夏合宿で訪れた長野で、その年からVC長野の監督に就任した川村から誘いを受けた。アウトサイドヒッターが少ないチーム状況に加え、仕事との両立で常に全員が万全のコンディションを整えるのは難しい。同時期に大塚とエバデダン ラリー アイケー(大阪ブルテオン)がパナソニック・パンサーズ(現:大阪B)へ強化指定選手として加わり、主軸を担った例もある。12月の全日本インカレを終えた大学の試合や授業がない期間にチームの力になってほしい、と工藤にも白羽の矢が立てられた。
VC長野だけでなく、工藤にとっても願ってもない機会だ。トップリーグでの経験という大きな魅力に、「行きます」と即答した。そして、練習へ参加するとすぐに「現実を突き付けられた」と笑う。
「サーブもスパイクも何もかもが、学生とは全然違う。言い方は悪いですけど、VC長野は下位だったので上位チームはどれだけすごいんだ、と。実際すぐ試合に出させてもらえて、サーブを受けるだけでも球が重いし、なかなか適応できない。でもそれが経験できるだけでも楽しかったです」
経験を重ねたのはバレーボールだけに限らない。長野県南箕輪村を本拠地とするVC長野は、アウェイゲームでは常に長距離の移動を伴う。東京や名古屋はバスで3時間程度だが、大阪まではバスで5時間。SVリーグに属するクラブは土日の試合に備え、木曜移動のクラブも多いが、長野の選手たちは火曜から木曜までは午前中それぞれの職場で勤務しなければならないために、移動は試合前日の金曜。バスに5時間座って、固まった身体をほぐす間もなく練習をして、試合が終わればまた5時間かけてバスに揺られて帰路に着く。さらに遠い広島や旭川へ行く際はバスと新幹線、飛行機移動が加わり、試合を終えて体育館に戻ると日付が変わることも珍しくない。

過酷な環境も「試合に出てなんぼ」。大ベテラン松本慶彦の背中から学ぶプロとしての覚悟
在学中の2年間はVC長野トライデンツの選手として活動したが、卒業後は別の選択肢もあった中、過酷な環境も理解したうえで改めて長野を選んだ理由は何か。工藤の答えはシンプルだった。
「一番は出場機会です。VC長野だから出られるってわけではないし、上位のクラブで練習から世界レベルを体感できるのもいいことだと思うんですけど、僕はやっぱり試合に出てなんぼだと思うし、そこで自分の価値を上げたい。なかなか勝てない時は気持ちも落ちるし、連敗が続いて『試合が来てほしくない』と思うこともありましたけど、でもこのチームで長くやりたいと思うし、チャンピオンシップに行きたい。どんなにしんどくてもまた次、と切り替えられるようにもなりました」
負けて帰る遠路は長く、身体に残るダメージは大きい。だが今季は、そんなことを言っても言い訳にしかならない、と心から思える理由ができた。21歳上のレジェンド、松本慶彦(VC長野)の存在だ。
「僕にとっては高校の後輩、“凛虎のお父さん”でもありますから(笑)。今までずっとトップでやり続けてきて、いろんな時もある中でずっと気持ちと身体を保ち続けているのがほんまにすごい。だって、今の僕に対して“あと20年やれ”と言われたら、マジで?って思いますよ(笑)」

「自分がチームを勝たせる」自覚と責任。次の世代が夢見る理想のヒーロー像を追い求めて
1つでも多くの勝利を求め、戦う日々。なかなか自信を持てずにいた学生時代とは違い、今は「自分がチームの中心としてまとめていかないといけない」自覚がある。
「僕がダメだったら負けるし、僕がよければ勝てるチャンスも広がる。それぐらいの責任感を持ってやっていかないとダメやと思うし、この先もできる限り長く、バレーボール選手でい続けたい。僕がちっちゃい頃に清水さんやオミさんを見て思ったみたいに、僕がバレーをしている姿を見て、『こういう場所でバレーをしたい』と思ってもらえるような選手になるのが、今描く未来像で理想です」
“あの頃”の自分に誇れる今、そして、これからを生きていく。覚悟と、自信を胸に抱いて。

Text by Yuko Tanaka
Photograph by Kohei Komatsu
