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「今、めちゃくちゃバレーボールが楽しい」純粋な想いを力に変え、再び高みを目指す埼玉上尾メディックス・黒後愛
「今、めちゃくちゃバレーボールが楽しい」純粋な想いを力に変え、再び高みを目指す埼玉上尾メディックス・黒後愛
インタビュー

「今、めちゃくちゃバレーボールが楽しい」純粋な想いを力に変え、再び高みを目指す埼玉上尾メディックス・黒後愛

2026.04.16
medics

幼少期からバレーに囲まれて育ち、名門・下北沢成徳高校で「新しい自分」に出会った黒後愛。日本代表として世界の舞台を経験した彼女が、自分自身の心と丁寧に対話する時間の中で再確認したのは、幼い頃から変わらない「バレーボールが大好き」という純粋な想いだった。埼玉上尾メディックスでの新たな日々に充実感を滲ませる彼女が、一歩ずつ着実に歩む現在の心境と、再び見据えたオリンピックへの熱き志を語る。(取材日/3月4日)

「早くバレーがしたい!」物心がつく前から育んだ、バレーボールへの純粋な憧れ

 バレーボールを始めたのは小学3年生の時。出会いをたどれば小学生に入るよりもずっと前、産まれて間もない頃からベビーカーに乗せられ、父が指導するバレーボールを見てきた。
 当然、その頃の記憶はない。だが、物心がついた頃には「早く私もバレーボールがしたい!」とウズウズしていた。嬉しそうに、楽しそうに、黒後愛がバレーボール人生の始まりを語る。
「5歳上の姉がバレーボールを始めてからは私も当たり前のように練習へついて行っていたので、早くやりたい、やりたい、って。でも両親からは『お姉ちゃんが始めた小学校3年生になってから始めようね』と止められてきたんです。もともと活発で、家族でデパートへ出かけてもちょっと目を離すと一人でエレベーターに乗って、子供が遊ぶ場所に勝手に行っちゃう(笑)。バレーボールも同じで、やらない選択肢はなかったから、早くやりたい、早く早く、ってずっと思っていたんです」
 念願叶って小学3年生で地元のジュニアチームに入部。上下関係もなく、歳が離れた先輩を後輩が名前で呼ぶのも当たり前。3年生だった黒後も6年生の先輩たちが大好きで、自分が上級生になる頃に下級生から「アイ」と呼ばれるのも嬉しかった。
 とにかくバレーボールが大好きで、いろんな人たちと笑い合いながらしゃべるのが大好き。
 一生そのままでいられると思っていたバレーボールを「やめたい」「やりたくない」と思ったのは人生で二度だけ。その時は苦しくて、前も先も、光すら見えない日々。
 それでもやはり、またここに戻ってきた。
「今、めちゃくちゃバレーボールが楽しいんです。やっぱり大好きだなぁ、って」

名門・下北沢成徳高校での転機。「新しい自分」を求めて挑んだ、心身を鍛え上げる日々

 バレーボールとの出会い、始まりが小学生の時ならば、SVリーグの選手として生きる今へとつながる始まり、きっかけはいつだったのか。
「高校生です。(下北沢)成徳へ行ったことが、私にとっては本当に大きなことでした」
 中学2年時に全国中学選抜に選ばれた。栃木県では名を馳せたが、関東大会に出場しても上位に勝ち上がることはなかなかできず、全国大会で優勝を狙うチームの存在すら知らなかった、と笑う。
「バレーボール選手になれるかな、なってみたいな、とは思っていました。でも『なりたい』と強く願うまではいかなかった。そもそも、バレーボール選手になるといっても私の場合は日本代表とかVリーグがイコールではなくて、ママさんバレーとか、とにかく全部含めて、バレーボールが大好きだからずっと続けられたらいいな、と。明確なイメージは何もなかったんです」
 自分の将来に対して貪欲ではなく、むしろ無頓着だった少女が変わるきっかけを得たのが、高校入学の時。バレーボールに詳しい人ばかりでなくとも、荒木絵里香、木村沙織といった選手たちを輩出し、全国優勝を何度も経験している名門校の1つだったが、黒後はそこまで把握していなかった。
 抱いた印象は実にシンプルだ。
「ちょっと怖いな、とは思っていました」
 どんな理由があったのか。具体的に尋ねると、黒後がニヤリと笑う。
「トレーニングです。もともと私、トレーニングはめっちゃ苦手だし、走るのも苦手。持久走大会でもバレー部歴代最下位記録をつくるぐらいひどかったので(笑)、私を知っていて、成徳を知っている人には『本当に大丈夫?やっていける?』と心配されました」
 チームを41年率いて、2022年に勇退した小川良樹前監督の方針は高校で日本一になることだけではなく、それよりも将来、長きに渡って世界で活躍する選手を育てること。土台になるのが基礎、基本を重んじた練習であり、トレーナーの指導のもと、定期的に実施するウェイトトレーニングだった。
 今でこそ、高校生でもトレーニングを積極的に行うチームは増えたが、女子チームで本格的な器具を使って、1つ1つの動きを丁寧に解説された後にバーベルを持ち上げるチームはなかなかない。下北沢成徳はまさに先駆者というべき存在であり、小川監督も黒後の将来を見据えて声をかけたが、最初はさすがに二の足を踏んだ。「行こう」、と決めたのは中学時代の顧問に言われた一言がきっかけになった、と明かす。
「『トレーニングをしたらもっとすごい選手になれるよ』と言われた。その言葉を聞いて、新しい自分になれることが明確に見えている場所なら行ってみたい、と思って、成徳へ行こう、と決めました」
 噂でも誇張でもなく、トレーニングも走り込みも本当にきつかった。だが、やればやるだけ確実に身体もプレーも変化するのを実感できた。高いトスを高い打点から打ち抜く、一見すればシンプルに感じられる攻撃でスパイク技術とパワーを育み、1年生から出場機会を得た黒後は2年時の春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)で3年ぶりの優勝を遂げる原動力となった。
 多くのメディアが集まる春高で、一躍ヒロインになる。注目度はそれまでと比べられないほどに上がったが、その1つ1つに対して丁寧に応えるのも下北沢成徳の選手たちに受け継がれてきたものでもある。それもまた、将来を見据えたものであるとともに、高校生とはいえバレーボール選手として、注目してもらっている自覚や責任を持ちなさい、という意味も含まれていた。
「小川先生は基本的に取材を断らないし、私たちのところに来る取材も断らない。改めて思い返すとすごいことだな、と思います。今でも一番覚えているのは『負けたあとの対応を選手として一番大切にしてほしい。そういう時こそ、一番丁寧に応えることが大事なんじゃないか』と言われたこと。そのとおりだな、って。大人になってからより一層思うようになったのですごく記憶に残っています」
 当時はシンプルに、注目してもらえることが嬉しかった。だからいつも、笑顔で応じる黒後の姿があった。東レアローズ(現・東レアローズ滋賀)に入団、入寮の日もテレビの密着取材がついたが「引っ越しを手伝ってくれるのでありがたかった」と笑う。
 楽しかった取材や、注目される嬉しさが、いつしか苦しさに変わったのはそのあと。職業がバレーボール選手になり、3年後に東京五輪が開催される。期待がプレッシャーへと変わった時だった。

エースの重圧と向き合ったプロの世界。期待を背負い、世界最高峰の舞台で戦い抜いた誇り

 たった1つ、歳を重ねただけなのに、高校生からVリーグ(現:SVリーグ)の選手になると世界は一変した。バレーボールというチームスポーツでありながら、注目の矛先は個に向けられる。できる、できないの結果だけでなく伴う責任感は大きく違う。
「高校の頃は自分が頑張って、結果が出たらチーム全体が評価される。でも、Vリーグに入ったら東レの黒後愛が評価されて、注目される。すごくありがたいことで、嬉しいことなんですけど、うまくいく時ばかりじゃなくて、うまくいかない時もあるじゃないですか。楽しい、嬉しい、幸せ、という感情もあれば、どうしよう、悲しい、つらい、という感情もある。好きなことをやらせてもらっているわけだから、つらい、悲しいという感情を出しちゃいけないと思っていたんです。今はね、みんな人間だから強くないよ、って思うし、言えるんですけど、東レに入って1年目の自分には言えない。いろいろ、考えすぎちゃっていたし、結果が出ないことがとにかく苦しかったです」
 入団した17/18シーズンは6位。ルーキーイヤーからスタメンで試合に出場し、経験を重ねる。それだけでも十分すぎるほどの成果であるにもかかわらず、黒後はもがいていた。
 こんなに苦しいならもうバレーを「やめたい」とも思ったが、周りの評価は違う。攻撃だけでなくサーブレシーブもできて、すべてのプレーを器用にこなす。19歳の黒後は日本国内のトップリーグだけでなく、日本代表で主軸となる存在としても期待を集める存在だった。
 2020年に開催が決まった自国開催の東京五輪に向け、期待も注目度もこれまでの比にならないほど高まる中、重圧に加えてもう1つ、黒後を追い込んだものもある。新型コロナウイルスの大流行で、全くと言ってもいいほど人に会えなくなったことだ。
「練習もできない、試合もできない。できたとしても無観客で、休みの日も外に出られないから息抜きをする場所や機会が全くなくなってしまった。私だけじゃなく、みんな同じ環境なんですけど、でも私は人に会ってしゃべるのが大好きだから、本当につらかった。そのまま、気持ちも整理できずにオリンピックが始まってしまった、という感じでした」
 結果は、予選グループリーグ敗退。もともと人気も注目度も高い女子バレーは、勝って称えられるよりも、負ければその何倍も厳しい評価にさらされる。エースとして注目を集めた黒後も例外ではなく、人生で初めての感情を抱いた。
「もうバレーボールはやりたくない。ボールを見たくない、って思っていました」

自分自身を見つめ直した大切な時間。静かな生活の中で再発見した「バレーと共に生きる」想い

 五輪を終え、滋賀に戻りリーグへ向けた準備をしようとしても身体と心が動かない。心身の健康以上に大切なものはない、と促され栃木の実家に帰った。約半年は何をする気力もわかず、朝も夜もない生活で、行き来するのは部屋のベッドとリビングのソファだけ。友人が会いに来てくれても家から出られず、人に会えない時間が続いた。
 ようやく前を向けるようになったのは、五輪翌年の22年になってから。休みたい、バレーボールのない環境へ行きたい、と思い続けていたが、本当に一切バレーボールと触れることなく時間を過ごしているうちに、自分の中に芽生える別の感情に気づいた。
「バレーボールを見たくないと思っているはずなのに、バレーボールを全くしない自分の姿も想像できなかった。少しずつ、自分の心がバレーボールに向いて、東レも期限を設けず『自分が戻りたい時に戻ればいい』と待ってくれていたので、自然にもう一度。バレーボールをやろう、という気持ちが少しずつ大きくなっていきました」

埼玉上尾で手にした「最高の楽しさ」。自分を信じ、再びオリンピックの頂を目指す覚悟

 不安がなかったわけではない。だが一歩踏み出してからは、また前に進むことができた。東レアローズへ戻り、1シーズンを過ごした後、23年に埼玉上尾メディックスへ。実家の栃木に近い関東で、もう一度新しい気持ちでバレーボールと向き合いたい。シンプルな感情を優先した結果、今は「本当に楽しい」と満面の笑みを浮かべる。
「チームメイトや周りの人たち、やっぱり私は人が好きだな、って改めて思いました。バレーボールを深く理解しながら生活できていることがすごく幸せ。今が一番楽しいです」
 だから、というべきか。ごく自然に、新たな夢と目標がある。
「次のオリンピックを目指したい。自分にも素直になって、いろんな感情を受け入れるのではなく受け止めて、でも潰れずしっかり流せる人になっていきたいです」
 大好きなバレーボールと、これからも。笑顔で向き合っていく。

Text by Yuko Tanaka
Photograph by Kohei Komatsu

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